地球交響曲

未知踏進~稲葉香写真展

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南森町の近くにあるCHAKRAというCAFE&GALLELYで、元町で知り合った稲葉香さんの写真展、スライドショーの企画に伺った。それはそれは多くの人が訪れ、いかに稲葉さんが愛されているかという風景が広がるのです。そしてこのスライドショーの中で、この企画のハガキに選ばれた写真の大切な意味をかみ締めながら時は進んでいきます。

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そして隊長のお話。河口慧海師のお話に熱がこもっていつの間にやらマイクが指示棒に、メガネがマイクになっているという、とてもおもしろい方でした。ネパールについて、多くのことを考えるよい機会をいただいたと思います。また、その山々をめぐるにあたり多くの資金が必要になることを知ります。そこには以前ネパールでボクを助けてくれたシェルパたちの人件費も含まれていると思うと、心は複雑です。危険な旅で命を亡くす可能性も含まれているのですから。

ボクが尊敬する冒険家、植村直己はシェルパとのつながりも熱く、最終的には冒険をスポンサーの協力、犬ぞりの犬たちの命はあったにせよ自己完結型の旅へと変貌していきます。それは自己の欲求を自己で完結しようとする優しき彼の試みであったと思います。そして彼はただひとりマッキンリーに消えていくのです。

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今日はとても温かな日。稲葉さんも、隊長もとても熱い人。それはボクにとっても非常に刺激的なものでした。そして旅について本当に色々と考えました。ボクは20歳から毎年2ヶ月間海外を放浪するという生活を、エジプトから4年間続け、人生を変えたサハラ砂漠の体験を踏まえ、その後、日本にフィールドを移行した。最初は自分探しの旅であったが、今は自分はいつも自分の中にいることを感じている。そして未知なる故郷、日本という国の大きさをまだまだ実感している途中なのだ。

そして大切にしている言葉は、ボクが最も尊敬している民俗学者の父の言葉。先を急ぐことはない。あとからゆっくりついていけ、それでも人の見残したことは多く、やらねばならぬ仕事が一番多いということ。まったりし隊の語源たる「まったり」とは、京都弁でまろやかでこくのある味わいが、口中にゆったりと広がっていくさまを言う。もうひとつはゆっくりしたさま。のんびりしたさま。くつろいださまを言う。あらゆる物事をゆっくりと噛み砕いて、カタチにしていきたいと思う。

そして稲葉さんは旅と旅行は違うという。おそらく旅行とは観光のことであろう。現代社会における観光とは消費的な側面、楽園を求める状況を併せ持ち、それに対する反抗ともとれるわけであろうが、そもそも観光とは中国の易経によると、一国の王たるものの仕事をいう。一国の王たるものは諸国をめぐって国の光、すなわち美しい自然、それがもたらした豊かな人々の生活を観て(観光)こなければならない。では、なぜ王はそれを見てこなければならないのか。それは自国に帰ったあと、他国の光を見ることで、豊になった王自身が、今度は自らの国の光を示すためであるという。稲葉さんの今日の企画もまさしく自らの国の光を示すものであり、ボクたちも今までの旅の中から、光輝くものを発信していこうと、新たな刺激をいただきました。

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Vision(ネイティブジャパニーズのまっさらな物語を紡ぐために)

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目に見えない世界を知るネイティブジャパニーズを求めて。今の世界、日本のあり方を先住民の視点から捉えなおし、またその精神性、ヴィジョンを話し合うため元町へ。ゲストは北山耕平さんと、冨田貴史さん。その内容はゆっくりと心に落ちていっている状態だが、今回は同じヴィジョンを共有する人々と話し合う時間があって、それがとても良かったのです。

どうもはじめまして!で始まり、会場はゲストそっちのけでそれぞれの活動を話し合ったり、積極的に意見交換がはじまる。それはある女性が立ち上がり、せっかくこのような場に集まった人々が、それではサヨウナラとまた別々に別れていくことがないようにと始まったのですが、つながりの輪はますます大きくなるばかり。またボクたちのような30代の人が大半だったと思います。

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ヴィジョンとは、北山先生の言葉を借りると「人生の計画や経済設計」のことではない。それは自分を突き動かし、導く根源的な力の源のことである。そのヴィジョンを共有できたとき、それはとても大きな力となる。そしてその舵を取る次世代として、自然から多くを学び、日本という絨毯をめくって直接大地に触れ、さらにはプレアデスこと昴が輝く間は夢の話をしよう。そして電気を喜んで消す子どもたちの母であり父となるべく立ち上がる人々の和が、小さくともここ元町から生まれつつあります。

今日は節分。冬が終わります。冬は「ふゆる」といい、それは震えるということ。魂が震え、そして再び春が来る。それは右肩上がりの豊かさ、成長を夢見て一直線に進む世界の仕組みではなく、全てが大きな円を描いてまわり続ける世界の仕組みなのです。

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映画「アース」

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映画「アース」を字幕版で見たくて梅田のレイトショーへ。オシドリの雛が高い木の上の巣から無傷で飛び降りるシーンや、カタカケフウチョウの求愛ダンスなど、クスクス笑える姿を織り交ぜながら、このままでは2030年に絶滅するであろうホッキョクグマからはじまり、ヒマラヤを越えるアネハヅルの群れ、ザトウクジラやゾウの移動、そして弱肉強食という生と死の世界。いくつもの絶妙なバランスによって保たれるこの世界は、地球は人間だけのものではないという当たり前のことを、美しい映像によって教えてくれる。

そして観に来ていた年齢層のほとんどが30代の若者。この事がすごく印象的で、これからの世界を変える原動力のベクトルは、次世代のことも考える人々によってゆだねられるべきだ。そして、帰りにヨシコと今度は吹き替え版を見に行こうということになる。そこには子どもも多く観にきているだろうという予感と、彼らとその時間を共有してみたいからだ。

ただ、この映画で少し残念なことは、子どもに配慮してか、食うか食われるか、捕獲し、生命を奪い、また違う生命が育くまれる最後のシーンが抽象的、もしくはカットされてしまっているということ。(BBCの放送では撮影されていたのですが。)それをやれ「子どもには残酷だ」などと言って当の大人もその事実をあまり受け止められずに、どうして生命のありがたさ、食のありがたさを子どもに教えることが出来るのだろうか。

今日も帰りの路上には飲食店から出る残飯があふれ、煌々と光るビルのライトが眩しい。このような人間の生活を維持するために、ホッキョクグマがあと22年後に姿を消すことを思うと、胸が痛くなるのです。かの星の王子さまを書いたサン=テグジュペリは、「この星は未来の子どもたちから借りているもの」と書いた。今、ボクもそれを思わずにいられない。

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「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない

レイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」という本にはそのように書かれている。

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最近、週末旅行を重ねていると本当にそうだなぁと思うのです。確かに、木々や鳥たちを見てもどんな名前で、どのような生態系を持っているのか分からないが、あれ?あの木はおもしろい形をしているなぁ、あの白い鳥はカラスとお話をしているが、仲間なのか?、あれ?こんなところに誰か昆虫の羽がついているなど、小さな発見を繰り返し、感じ、それを1日の終わりに楽しかったねと言葉を交わすだけでも十分なのだ。

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しかしボクの場合、寝る前になるとあの木は何という木で、どのような実をつけるのか、それはおいしいのかなど疑問が次から次へとわきあがり、落ち着かず、次の日には調べるため急いで本を買い求めることになる。またそこから得られた知識というのは、スポンジが水を吸うように吸収され、これが困ったことにそれを実体験したくなってフィールドに帰っていくというサイクルになるのです。

すると、そこにはやっぱり色々な人が活動していて、僕たちは歩き、見て、話を聞くことで、そこに住む生命の輝きが網の目のように張り巡らされていることや、また知らない数々の神秘を深々と感じるのです。

ボクたちのお茶の間にも、実は生命が息づいていてる。それは下の八百屋さんで買ったクレソンだ。もともと油で炒めて食そうとしていたのだが、料理をする前にクレソンを見ると、シワシワっと弱っていたのです。それを見たヨシコが、これは一大事と水につけていると、あらまぁ、元気ハツラツに。

今では根が生えてきて、買った当時の1.5倍になる。いつ食べようかと思うのだけれど、こんなに生きているんだ!と叫ばれると、なかなかクチにできない。そこでこのクレソンに名前をつけようと、ヨシコにさっそく名付けてもらった。

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うーん。このクレソンの名前はねー。グレ男(ぐれお)。

えっ!? グレ男(ぐれお)ですか?

すごい名前がついたものだと、ヨシコに理由を聞くと、「このクレソン、器から飛び出してるやろー。せやから人間で言うとグレてるねん。」だって。

そんなグレ男(ぐれお)をはじめ、僕たちはすべて生命のあるものを食し、生きている。このことは知識としてではなく、心と肌で感じ、毎回ありがたくいただこうと思うのです。

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雑誌coyoteの声

目の前に新井さんと赤井さんがいる。

今日は雑誌coyoteの編集長新井さんと、ヨシコが大好きなイラストレーター、赤井稚佳さんにお会いしました。赤井さんは最近、京都にはまっているそうで、弁慶石など物語、伝説があるものに興味津々だとか。赤井さんのお父さんや身内の方も来られていて、赤井さんの発言に、「何でやねん!」とツッコミを入れるあたりが関西です。

そんな赤井さんは幼少のころより普通の子ではなかった、ベランダで空をみたり本を読んだり絵を描いたりしていたと、とにかく変わった少女だったと言う。そして新井さんも、赤井さんって不思議少女だったんですね、と感想を述べられる。でも赤井さんのお父さんは柔らかな笑顔で、確かにベランダでそのようなことをしていましたが、とても普通の子でしたよと、小さな眼鏡の奥底から穏やかな眼差しをされていました。

新井さんは、今は星野道夫に一直線だと思う。アラスカでのレンタカーの話が印象的でしたが、ともかく前にすすむことの大切さを教えていただけました。そして雑誌編集長ならではのお話も聞けて、ふたりして幸せな時間を過ごしたのです。

僕たちは新井さん赤井さんをはじめ、好きな人に会いたくなると、すぐに会いに行ってしまう。それは本というものからの影響が非常に大きい。そしてその文章を書いた人が近くにいると思うだけで、すぐに飛び出してしまう。近年では池澤夏樹さん、ボブ・サムさん、山口智子さん、ナイノア・トンプソンさん、ホクレア号のクルー、佐藤初女さん、龍村仁さん、辰野勇さん、関野吉晴さん、エミコ&スティーブ・シール夫妻、ホクレア航海ブログの翻訳家の加藤さん、そして内田正洋さんと言葉を交わす。すると今まで大好きだった文章がその人の言葉、音声でまったく違う印象を持つこともありながら立ち返るのです。

例えばcoyoteの3号の内田さんの文章を読んでいると、こんな文末になるのかなぁ、もっとやんちゃ小僧(失礼?)のような語尾で親しげにお話してくれていたけど、などなど複合的に絡まりあって知恵として内包される。本というものは読むだけでも経験になるけれど、書いた人に会ったり、その文章の場所に行くことで、その本自体に深みが増すし、まったく違う感想を持つこともある。いずれにせよキッカケをくれる本というものは、素晴らしいものなのです。(昨日も今森光彦さんの写真集「おじいちゃんは水のにおいがした」を見ただけで湖西まで行ってしまったように。)

さらに雑誌coyoteで働いている女性とお話しもしたのですが、また東京でお会いしたいと思う。その人は本当に目が綺麗な方で、新井さんと赤井さんへの橋渡しもしてくれました。そして皆で赤井さんの原画展を見に行き、そこでお別れ。でもまたどこかで会えるような気がします。

帰り道。ビッグイシューという雑誌を売るおじさんに出会う。おじさんとお話をしながら買い求めると、常連さんにはお渡ししてるんです、とコピーした用紙をくれる。そこには手書きでクロスワードや、クイズなど人を楽しませることでいっぱいで、そのおじさんがいかに紙面で人を楽しませようかという心が伝わってきて、今日、一番の雑誌をいただきました。

そして新井さんの言葉を大切にし、おじさんの用紙も、全ての本も手に取って読もうと思う。そこには多くの人の情熱と思いが詰まっているのだから。

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おいしい時間

電車旅行の何がいいかというと、お弁当を頬張りながら、車窓を流れる景色を眺めること。ガタン、ゴトンと心地よい響きの中で今日は「イカ飯」をパクリ。ヨシコは、何やらおかずの種類豊富な幕の内のようなものをパクリ。これから奈良の吉野まで「佐藤初女(はつめ)」さんの講演会に行くのです。

青森県で「森のイスキア」という憩いと安らぎの場所を主宰する初女さん。やってきた人たちに初女さんがすることはごく平凡なことだ。 料理を作り、一緒に食べる。そして話したくなった人の傍らでじっとその人の話に耳を傾ける。悩みを抱えた人や心を病んだ人たちがその料理に接し、やがて心を開いていくのです。 初女さんは、料理というものを通して、生き方を含め、何もかもを表現される。あの小さなカラダから発せられる言霊によってか、とても大きな幹をもった大木が、初女さんの後ろに見える気がするのです。

講演会はと~っても楽しいもので、笑いあり、感動あり、質朴な人柄が会場を満たしていました。またこの会を開くにあたり、ひとりの女性の思い立ちが、多くの人の協力を得て、この日を迎えたということで、想いというものは通じ、また実現するのだなぁとかみ締めるのです。

そこからボクたちは、吉野の街を散策する。すると「ヘイ!忙ししておましてな」なる謎の文面に直面し大笑い。のんびりと歩きながら、駅から大阪にむけて電車が出発する。 車内でひとりあれやこれやと考えてみる。「おいしい」という言葉は、ただその料理を表現するだけでなく、「おいしい」と言いあえる環境も必要だと思うのだ。ひとりで食べるご飯と、みんなで食べるご飯を想像してみてほしい。どちらがカラダに自然と受け入れられるか、分かるのではないのでしょうか。そうだ、晩御飯はおいしいものを食べよう!そうだ!そうしよう!

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ヨシコと快食。快眠。起床。朝からとなりの台所ですり鉢を使ってゴリゴリとヨシコがゴマをすっている。これをするのが夢~だ~♪ゴマをするのだ、ふんふんふ~ん♪的な謎のオリジナルソングを歌いながらご機嫌。見てはいないが、ボクの予想ではすりながらゴマを何度もつまみ食いしていると思う。

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昨日、手ぬぐいと竹でつくった自家製「掛け軸」が、朝の風にゆられてパタパタと音をたてています。もうすぐ朝ごはん。むくりと起きて、玄関に打ち水、カーテンあけて、瓶ビールを冷やして、ヨシコに「ちょっとそこの焼き鮭をチャーハンに入れるから、ほぐしといて」と言われたので、寝ぼけたアタマで実行すると、めちゃくちゃ熱いではないか。思わず鮭から手を離すと、ボクの素足の上にペタリ。ギャー!!眠気も吹っ飛ぶ熱さで騒いでいると、「もう手伝わなくていいよ」って言われる始末。何はともあれ「おいしい」ご飯の時間は、もう間もなくなのだ。

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一夜明けて

ヨチュオの日記にうぉんうぉん書いてあるので、わたしの感想は省きます。ただ、今朝目覚めたとき、自転車に乗って会社に向かうとき、なんだかとても幸せな気持ちでした。

ケリー・ヨストのピアノの音色に癒されたのか、座間味島で聴いたクジラの歌を思い出していたからか。都会に住んでいるのに自然とつながっているような ほんわりと優しい。。。そんな感覚。

そして、龍村監督のことばをひとつひとつ思い出しながら、ここ数年会いに行った、ジェーン・グドール博士やボブ・サムや、内田正洋さん、旅を通じて出会ったたくさんの人や自然、最後にはホクレア号に会ったときの感動を思い出して、自分の中に生きる力がどんどん沸いてきているのを感じた。

生身の人間や自然から直接受けるパワーのなんと大きいことか。すこしずつ、すこしずつ進みたい道が見えてきているような

そんな気がするのだ。

ヨシコ

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地球交響曲第6番

龍村仁監督に会いに行く。

地球交響曲第6番という映画を見たのだが、今回は音に関するテーマだったので、非常に興味深かった。今もクジラの声を聞きながらこの文章を書いているのだが、音は偉大だなと思う。

そこに実態がなくとも過去の記憶とリンクする。視力をもって今日の奈良裕之さんの動きを見ていると、髭をたくわえた男が弓を持ってグルグルと回転し、音を奏でているだけなのであるが、心の目で見ればそこには風があって、豊かな情景が心象となるのです。

音楽をやっていた人間としてなるほどと感じたことは、ジャムセッションのときである。楽譜もなしに、音楽はどんどん進むのは、自分の音を出すとともに、他人の音をよく聞くからこそ、響き合い、ひとつのハーモニーとなる。それは社会に通ずる物の見方でもあるのです。

星野道夫は、「明日、たとえ地球が終わろうとも今日、リンゴの木を植える」といいます。この言葉に希望を見出すのはボクだけでしょうか。それはこれからの環境問題を考えていく上で、ひとつの大きな指針となると思うのです。数年後に温暖化で水没するなど、危機感を煽る言葉がメディアにのりはじめたこの時期に(確かに現実としてそうかもしれませんが)、どこか心豊かに行動できる言葉だと思うのです。それは仕方なく動くのではなく、そこから主体的な意思の力を感じるからなのです。

どのような世界が理想なのか。実はそれは大切なことではなくて、もっと真剣に取り組まなければならないのは、プロセスであると龍村さんは言う。理想を決めてしまったことで、プロセスを自分が思いもしない事象で曲げてしまうのは、おかしなことだと言うのです。理想のイメージと、ポジティブな考えが大切で、でも何かをコントロールしようとするとおかしなことになり、具体的な1歩を踏み出すことだけが必要なのです。

また龍村さんは、人という種に生まれてきて、自分自身の道、そのことを知ることが楽しく、またその本質というのはすでにアナタの中にあるのですと言う。あの人は尊敬できる人だという気持ちは不思議なもので、すでに自分の中にあるものを何故あこがれるのかと疑問に思うそうです。誰もが普通の人で、経歴を見ると確かにすごい人はいるが、その人は自分の得意とした分野で戦う意思がものすごく強い人であって、それは傲慢なのではなく、やさしい目に象徴されるように、とても純粋なんです、と笑顔で話してくれる。

確かにジェーン・グドール博士からはじまり、最近では内田正洋さん、ナイノア・トンプソン氏とお話する機会を得ましたが、龍村さんの言葉は見事に腑に落ちる。アナタがすごいと感じている人は、とても普通の人ですよ、という龍村さんの言葉は、アナタも普通の人だからすごいことが出来る可能性を多分に含んでいるのですよ、ということの裏返しにすぎない。

そして長屋和哉さんとお会いしたとき、「一度会っていますよね?」と言われた。一度も会っていないのにそんなことを言われて面食らう。でも、実はどこかで会っていてもおかしくなくて、それは時間の軸を通り越したところでもいいわけで、素敵な言葉だなと思うのです。握手したその先に、人のぬくもりを感じることが、今、ボクが生きている証なわけで。

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