国立民族学博物館

茶の湯のものづくりと世界のわざ

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フリーマーケット開催中。

万博公園を歩いていると、子ども服や、絵本などが所狭しと並んでいる。ベビーカーが1300円をはじめ、色とりどりの子ども服が100円、小さなクツも100円と知るも、ヨシコが今の気持ちを歌いだす。

とっても安~いけ~れど♪お腹の子、男の子~か、女の子~か分からな~い♪

性別は生まれてきてのお楽しみにしているので、ここはひとまず退散。ヨシコは香ばしいフランクフルトへと駆け出した。

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茶と美-柳宗悦・茶を想う

大阪日本民芸館は何度きても鼻がやられる。ここの空調はどうなっているのだろうかといつも思うが、今日は茶を想おう。さて展示されている鼈甲の茶杓がかわいい。江戸時代の湯釜、明治時代の唐草屏風、昭和時代の・・・。

ん?昭和時代?

自分が生まれた昭和が、すでに過去の時代区分として目の前にあると、時の流れを感じずにはいられない。

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茶ニテアレ 茶ニテナカレ

宗悦の筆で書かれたこの逆説的な掛け軸を見ていると、なるほどなるほどと考える。真を見ずして、カタチに溺れるなかれということだろうか。茶事に心を入れる人は、とにかく茶事に囚われの身となる。そんな不自由さに茶はない筈である。茶はどこまでも茶でありたいが、それは同時に茶であって茶に終わらぬもの、茶に滞らぬものがなければならないと宗悦は言う。

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茶の湯のものづくりと世界のわざ

今回も国立民族学博物館の特別展は興味深い。人々の使い込んだ道具は美しく、また強さを感じるものがある。また駒沢利斎のセレクションには、モロッコのクスクスを入れる器があり、昔、サハラ砂漠で食した味を思い出す。そのような海外の器からも感銘を受け、日本的に菓子器を製作されたあたりなど、物の見聞がいかに昇華されたかという過程が見れて、これまたおもしろいものである。

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我々のように便利な世界で生活をしていると、五感が鈍ってくる。

パプアニューギニアの笛や、メキシコの馬型の貯金箱。彼らは実によく物を観察し、そして独創的だ。彼らはアートという言葉すら知らない。生活のから生まれてきたアートは温かみがあると言うが、まさにそのとおりだなぁと感じる。

手仕事を動詞で考えるというコーナーでは、叩く、鋳こむ、捏ねる、削る、描く、塗る、組む、曲げる、張る、切る、縫うという11の動詞を利用して、千家十職の仕事と、世界の民族のわざとの比較がされ、同じ手作業なのに文化の違いでこんなにも異なる表現になるのかと驚嘆したり、これとこれはそっくりだなぁと地域を越えた共通性を見出したりと飽きることがない。

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実は昨日、友人の二人展にお邪魔していた。

グラフィックデザイナーで版画もする友人と、書家でブルースマンが紡ぎだす物づくり。今日の展示同様、手仕事から生まれるものは千差万別である。この友人は大量生産の時代は終わったと言っていた。今は機械でつくられるものがほとんどだが、手作業でしかつくられないものがたくさんある。そして手作業は人につくる喜びを与え、またその手は心につながっていて、美しく独創的なものになるのでしょう。

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ヨシコよ、普通はフォークとナイフだよ。

フォークと、フォークって食べる気が凄すぎないかい?まさに・・・。

打テヤ モロ手ヲ

ほれぼれと見守るものをいつも目前に見るがよい。両手を打って讃ふべきものを持つことが出来れば、生活は輝く。

柳宗悦の言葉より。

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ハンモックから見た青い空

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はぁぁ、気持ちええなぁ。

今日は日本晴れ。家の裏にある万博公園でハンモックを引っ掛けのんびりする。風にゆらゆらと揺られながら、さわさわと音をたてる木の葉にうっとり。そのまま目蓋を閉じてしまいたいほどの心地よさ。こんな休日もいいものだ。

万博公園

そうは問屋が卸さぬぞ!

活発なヨシコがボールを投げてくる。二刀流をしようと言い出し、ボールふたつを投げ合って、互いに取り合う。バトミントンにも興じたが、下手すぎてゲラゲラ笑い、芝生のグランドを朝から走り回って、汗まみれ。フラフラになればハンモックでブラブラ。元気になればまたボール遊び。その繰り返しなのだ。

万博公園

こんな大きな公園が街のあちこちにあればいいのになぁ。

ハンモックに揺られながら、木々の下に憩う人々を見て思う。ロンドンのハイドパークみたく、ついつい行きたくなるような公園があれば、梅田のど真ん中でも行くだろう。もう駅前の開発はいいから、木々を植えておくれ。そこに人が集えば、帰りに周りの商業施設も利用するだろうし、いいと思うんだけど。時間貸の駐車場ももういいよ。ビルが壊されたと思えば、すぐに駐車場。それより、昔あったような皆が集える貸し畑にしておくれ。おいしい野菜を作るからさぁ。街で暮らすひとり暮らしの人も、畑で情報交換したり、色々な人に出会えると思う。そんなことをハンモックの中でブラブラ揺られながら夢想していると、ヨシコがソフトクリームを食べたいというので、もぞもぞと起き出した。

万博公園

その足で国立民族学博物館で開催している特別展「SELF and OTHER 「アジアとヨーロッパの肖像」を見る。アジアとヨーロッパの人びとが、自らをどのようにとらえ、お互いをどのように受けいれてきたのか。その認識の移り変わりをたどるものでしたが、非常におもしろかった。社会の資料集でみたような貴重な資料もあって、大満足。その中でもマルコ・ポーロはフビライ・ハンのある問いに対し「旅をするのは旅で出会う他者の中に、自分の中にあるほんの少しの何かに気づくため」と答えている。

万博公園

ボクは旅が大好きだ。マルコ・ポーロの言い分にもとても共感するものがある。そしてほんの少しの何かに気づいたのならば、そろそろ自分の言葉で足で歩き出さなければならないのではないか、という焦燥感にも似た自分への期待、展望がハンモックから見た青い空に広がっていく。だが歩き出す前に博物館の資料館にて、こんにゃくの作り方を映像で学びながら、ふたりともまどろんでしまった。だって、無音でずっと畑を耕しているんだもん。

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新しいライフデザインを求めて

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クロテンは自分の足跡をまた歩く習性があるから、そこに猟師は罠をしかけます。

今日は「新しいライフデザインを求めて」という民博公開講演会に行ってきました。そういう日に限って仕事が遅れ、走りに走って会場に着くととヨシコも含め、すでに400人満員。すでに極東ロシアの沿海地方に暮らすウデヘと呼ばれる人々のお話が始まっていたのです。

今回はデルス・ウザラーが生きた世界を知りたくて参加したのですが、とてもおもしろく、またお話くださる佐々木教授がうれしそうにお話するので、こちらも嬉しくなってくるのです。(きっとウデヘの人々のことを本当に好きなんだなぁ。)

そのウデヘの人々は伝統的な罠猟をするが、もちろん近代的な銃やボートもガソリンもどんどん使うそうです。また彼らがビキン川流域の天然林を今でも大切に守り抜いているのは、いわゆるエコ的な考えではなく、ただ猟で生きていく上に必要だったということと、森は神聖な霊的な存在がいる場所であり、彼らのアイデンティティに関わることだからである。(彼らの居住地域は驚くほど小さく、大部分が豊かな森なのです)そんな伝統と近代というバランスを見事にとっているウデヘに今や興味津々。

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引き続き、鈴木教授のアーミッシュのお話も分かりやすくおもしろいものでした。彼らはアメリカに住みながら独自の信念や、日常の規則であるオルドゥヌングを守り、現代文明に批判的でTV、PC、電話を使わず、高等教育を受けず、非暴力主義の主張から戦争にも反対している。車も乗らない、写真も嫌う。そして外の変化に対し何度も検討を重ねオルドゥヌングを変更しながら、今やどんどん繁栄を続ける人々なのです。

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21世紀のライフデザインは、ウデヘの人々の事例にしろ、アーミッシュの人々の事例にしろ、自分で「選ぶ」ということ。「選ぶ」ということは他方を「捨てる」ということにもなるが、その時その時「選び」ながら「捨て」ながら、自分たちを守って来た歴史がある。また厳格なアーミッシュの人々のおもしろいところは、子どもたちを彼らの文化で最初から囲うのではなく、散々アメリカの文化に触れさせながらも、最終的に子どもたちに選ばせるのである。(今でもその8割がアーミッシュとして生きることを選択しているそうです)

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選ぶという言葉を聞いているとまた針畑郷を思い出した。限界集落と呼ばれる地域に根ざした若い力は、都会的な便利さを捨て、かの地を選らんだ人々だ。ビッグイシュー90号を読み、さらに針畑郷への想いがつのる。そして日本は今や人口が減りだしている。さらに外国の木を散々切っておきながら、国土の3分の2は森である。人々がいなくなったところに野生が進出するのは早いという。各地のニュータウンがゴーストタウンになり、いずれ野生の世界となるならば、その時必要な知恵は針畑郷のような所に住む人々の中にこそヒントがある。その古来からの知恵を継ぐには、あまり多くの時間が残されているとは僕には思えない。

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ハレのかたち

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国立民族学博物館の「研究者と話そう」という企画。今日は笹原亮二准教授のお話で、「ハレのかたち~日本の文化展示から」というものでした。晴れの舞台などという、あの「ハレ」なんです。

その「ハレ」が非日常とすれば、日常は「ケ」というそうです。時(ハレ)と時(ハレ)の間(ケ)、それが時間ということではないかという先生もおられます。

今日学んだことは数多くあるのだけれど、おもしろかったのはキリスト教などでは悪は絶対的に悪だけれど、日本の人々は悪を「ハレ」の舞台、儀礼を行うことで「よい方向」へ持っていくということ。

たとえば、菅原道真。不遇、大宰府で没し、その後、京に異変が相次いだことで、これは祟りだと恐れた人々はその怨霊を、天神さま、さらには学問の神様としてまで「よい方向」に持っていく。

また祭りでは、日本の神さまは神輿に座し、その周りを太鼓や山車がはやす。すると神さまが元気になって地域を守ってくれる。そしてその効力がなくなりそうだと思われる1年後、また「ハレ」の日、祭りがやってくる。それは時代とともに、神さまが降りてきてくださるよう、風流(ふりゅう)に、華美になっていく。日本の美というのは、「わび・さび」の美だけではないのですね。

(また「ケ」を「気」で考えると分かりやすい。ケの生活の中で生じるケガレ(気枯れ)を「ハレ」の行事をもってはらい、元の「ケ」、元気に戻すのだと「文明としてのツーリズム」という本には書かれている。)

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このように国立民族学博物館は、ボクたちにとってのTSUTAYAだ。映像でも資料をたくさん見れるし、今日は高槻、塚脇地区の寒天づくり(これは非常におもしろかった!)と、津和野のサギ舞について。

さぁ、それではそろそろ小腹も減りましたし帰りましょうか。

あれ?

ひょっとして雨が降っている?

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天神さま、どうか晴れにしてくださいませ。

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